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幕末に起こった尊王攘夷運動。日本史では必ず習いますよね。

どういう意味で、どうして尊王攘夷運動が討幕と結びついたのでしょうか?

今回は尊王攘夷運動についてお伝えします。

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そもそも尊王攘夷ってどういう意味?


尊王攘夷は、尊王と攘夷と二つの言葉が結びついたものです。

尊王は天皇を敬う気持ちです。

攘夷は外国人を打ち払うという意味です。

この2つの言葉がくっついて尊王攘夷運動になりました。

尊王思想ってどこから発生したの?


天皇を尊敬する尊王思想は昔からありました。天皇は昔から代々続いていて初期のころは実際に天皇が権力をもって日本を支配していましたが徐々に武士の台頭によって権威のみの存在になってきました。そして有力な大名(武士)は力だけでなく天皇の権威を使って日本を支配をしました。

たとえば豊臣秀吉は関白(天皇を補佐する役職)になって、えらい天皇を補佐する関白だから他の人は関白である秀吉の言うことを聞かない、といけないという理屈です。

徳川家は天皇から、征夷大将軍に任命されているため日本を支配できるわけです。

だから秀吉は主家である織田家を従えることができたし、徳川家は豊臣家を滅ぼしても表立っては反逆とは言われません。

人ってただ強いだけの人間よりも強くて権威のある人に従うものなんですね。なので国を支配するためにも尊王思想というのは便利なものだったのです。

尊王攘夷の下地になった学問とは?

尊王攘夷の下地になった学問に水戸学があります。水戸黄門で有名な徳川御三家の一つ水戸藩で形成されました。

この水戸学は儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもので外国人を排斥することと天皇を崇拝することが書かれていて水戸藩だけではなく全国の藩校で教えられていました。だから尊王攘夷の思想の下地が全国にできていたんですね。

尊王攘夷運動が盛んになったのはなぜ?


1853年にペリー来航が来航して翌年の1854年 日米和親条約が締結されました。簡単に言うと鎖国をやめて開国したってことです。

でもなんで徳川幕府は今までずっと鎖国をしていたのに突然開国する気になったんでしょうか?

実は本音を言えば徳川幕府は鎖国をやめたくなかったんです。それはそうですよね。江戸時代の幕府って前例を大事にしていました。

2代目の将軍秀忠、3代目将軍の家光が決めてずっと守ってきたことを変えるってなかなかできません。

でも鎖国を貫けば戦争になって、外国にやられてしまうことがわかっていたので開国を決めました。

1840年に大国、清(今の中国)がイギリスとの戦争に敗れていることを知っていたからです。戦力差が歴然で戦争になったら勝てないのがわかっていたんです。

ただ幕府も外国の言いなりではなく幕府の体制を維持しながら、神戸海軍操練所を作ったり防衛を強化したりして外国に対抗しようとしていました。

でも他の藩や孝明天皇からみたら幕府の対応は弱腰に見えて、攘夷を実行するべきだと批判されます。

ようは現実がわかっていないんですね。なんか今の野党と同じ一面がありますね。

それに幕府も攘夷なんて到底出来っこないということを言えなかったんです。攘夷ができないということは 幕府は弱いと認めることになる。軍事政権である江戸幕府が弱いってそんなことを認めたら日本を支配する力がないと思われる。そんなことは絶対に言えないですよね。

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尊王攘夷の水戸藩


この時、幕府の開国政策を批判したのが水戸学発祥の水戸藩の徳川斉昭です。

徳川斉昭は水戸学を崇拝しているので強硬な攘夷論を主張します。

徳川斉昭にしてみたら天皇に任命された征夷大将軍が外国を打ち払うのは当然。という考え方で

現実路線の井伊直弼と対立してしまいます。その後、徳川斉昭は蟄居させられてしまいます。いわゆる安政の大獄ですね。

その後、安政の大獄の報復として水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名による桜田門外の変が起きて井伊直弼は暗殺されます。

幕府の中心人物が殺害されるという前代未聞のことが起き幕府の権威が大幅に低下してしまいます。

徳川斉昭は尊王攘夷思想でしたがあくまでも幕府あってのことで、まさか結果的に幕府がなくなるなんてことは思っていなかったでしょう。

水戸藩の尊王攘夷思想が薩長の志士にも影響を与えたともいわれています。ただし水戸藩の尊王攘夷思想はあくまでも幕府あっての尊王攘夷だったはずですが結果として幕府を崩壊させる下地になってしまいました。

それでは尊王の中心人物、孝明天皇はどう思っていたんでしょうか?

孝明天皇の気持ちとしては外国人が嫌いで今までの日本を維持したい。戦争をしてでも外国人を追い出すべき

ただ今までの状態を維持したいので、幕府を倒したいとは思っていたわけではありません。

あくまでも幕府が外国人を武力を使ってでも追い払ってほしいと思っていたんです。

ただこの孝明天皇の攘夷の気持ちが尊王の気持ちを持つ下級武士に大きな影響を与えました。その結果が討幕に向かうことになります。

変わっていく尊王攘夷の意味


薩摩や長州など他の藩の気持ちはどうだったんでしょうか?初期のころの尊王攘夷運動は天皇を尊重して日本全体がまとまって外国人を追い払う。

そのため徳川家と譜代で独占している日本の政治に他の藩も参加させてほしい。外国の強さをリアルにはわかっていないので文字どおり攘夷を実行して外国人を追い払おう。という感じでした。

ところが実際に下関戦争と薩英戦争でリアルに外国の強さを知ることになりました。外国から侵略されないためには日本を近代化しないといけない。

今の幕府や譜代だけで政治をしている状態ではだめだ江戸幕府を倒して天皇のもとに日本が統一される新しい政権を打ち立てる。

そして外国の技術を取り入れて近代化して富国強兵をすることで外国に負けないような国を作り、広い意味での攘夷を実行しように変わっていきました。

まとめ


江戸幕府が長く続いたのは、鎖国によって外国の文化が入ってこなかったことだといわれています。

尊王の気持ちが征夷大将軍である徳川家に従うという流れになっていたのですが、最後はその鎖国によって外国との力の差がついたことと、尊王攘夷の思想が幕府を倒す原動力になったのは皮肉な結果ですね。

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